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陶印の歴史

陶磁器による印の製作


遊びのこころで
篆刻(てんこく)は、中国を起源としており、主に篆書を印文に彫ることから篆刻というが、その他の書体や図章の場合もある。また金属(銅・金など)を鋳造して印章を作成する場合も篆刻という。特に文人の余技としての行為を指す。現代でも中国・日本を中心に篆刻を趣味とする人は多い。

陶印・篆刻の歴史
目次
中国の篆刻史
日本の篆刻史
中国の篆刻家
日本の篆刻家

●参考文献
沙孟海 『篆刻の歴史と発展』 中野遵・北川博邦共訳 東京堂出版、1988年、ISBN 4490261443
銭君?・葉?淵『篆刻の歴史と鑑賞』 高畑常信訳 秋山書店〈秋山叢書〉、1982年
銭君?共著『印と印人』 北川博邦・蓑毛政雄・佐野栄輝共訳 二玄社〈藝林叢書〉選訳I、1982年
水野恵『日本篆刻物語 はんこの文化史』 芸艸堂、2002年、ISBN 4753801926
中田勇次郎『日本の篆刻』二玄社 1966年

外部リンク

古典篆刻作品
中国の篆刻印章作品見本


中国の篆刻史 by wiki

殷(商)
中国において篆刻史はすなわち印章の歴史である。古くは三代(夏・殷・周)に起源があるとする説もあり、殷墟から殷璽が発掘されている。しかし、この殷璽については懐疑的な声が多い。

戦国時代
現在確認できる最も古い印章は戦国時代まで遡ることができる。この時代の印章はすべて?(のちの璽)と呼ばれたことから特に古?(こじ)と総称される。材質は多くが銅であるが銀や玉もみられる。朱文(陽刻)、白文(陰刻)ともにみられ、六国古文という書体が使われている。政治と経済が大きく変容した戦国時代に臣下の関係や商品取引の保証として印章が必要とされ、竹簡や木簡の封泥に利用された。文字以外に絵などの図像印、特に動物をモチーフにした肖生印が多い。このような図像印は六朝時代まで細々と存在したが以降は消滅し、日本の戦国時代に一時的に復活する。

秦・漢
秦の始皇帝の時代には印章制度(印制)が整い、印章は辞令の証としての役割を持つようになる。皇帝の用いる印を璽とし、官吏や一般用は印と呼ぶようになった。これに加え漢代には将軍の印を章と呼ぶようになる。印章の材質やサイズ・形、鈕式などで階級や役職を表した。このとき印文に小篆を用いることが正式となり、漢代になってもこの制度は踏襲され、繆篆(?印篆)といわれる印章用の篆書が登場した。

現代に至っても印章に篆書を用いるのが一般的なのはこの慣習が続いているからである。またこの頃鳥蟲書といわれる鳥や虫、魚などをモチーフにした独特の書体も用いられている。材質は皇帝のみが玉でその他は位順に金銀銅の金属印であった。玉は鏨で刻され、金属印は鋳造(鋳印)された。戦場などで役職を任命するような時間的余裕がない場合には、金属に直接掘り込み作成(鑿印)されたが、これを「急就章」と呼んだ。

六朝・隋・唐
裴松之の三国志注に楊利と宗養という印工の名前が確認できる。この二人は専門職とはいえ、自分で刻して鋳造したことから名前が確認できる最初の篆刻家である。
六朝時代には小篆の他に懸針篆と呼ばれる風変わりな書体も用いられた。また北斉の文献に紙に朱印で捺印したという最も古い記録がみられる。

隋が中国を統一するといよいよ紙の使用が一般的となり、印章は封泥から紙に捺して使うようになった。このため印文は陽刻が主流となりサイズも大きくなる。引き続き唐代になると楷書・行書が浸透したことや国際化が進んだことで印文に隷書や楷書・異民族の文字(西夏文字・女真文字・西蔵文字)が刻されることもあったが、そのほとんどはやはり篆書を用いた。この唐代になってはじめて印章を美術的に論じた文献が散見されはじめ、次第に印章に芸術性が求められるようになる。

宋・元
宋代になると不正を防ぐ目的で官印には九畳篆と呼ばれる独特のくねくねと折り曲がる書体が用いられ、清朝まで続いた。しかし、この九畳篆は美術性に乏しく雅を好む文人・書家などからは一切顧みられることはなかった。
元代には支配民族であるモンゴル人などが漢字を知らないことから花押印が多く用いられる。
このような中で文人の余技としての篆刻は、北宋の米?が開祖とされる。米?以前は文人自身が字入れしたとしても刻んだのは専門の職人であった。印材が象牙・犀角・水晶・玉など硬い材質であったためである。米?は自著『書史』や『画史』の中で治印(印章の作成)について論じており、その印影が粗削りで拙劣である点などから、自ら印材を刻んだ最初の文人と推定される。宋代から盛んとなった文人画は詩・書・画に印章を加えた総合芸術となっており、文人画家である米?が自らの美意識に適う印影を求めたからだと思われる。

米?の革新的な試みから200年近く経過した元末にようやく趙孟?・吾丘衍が登場する。書家・画家として有名な趙孟?は、「円朱文」と呼ばれる小篆を用いた柔和な印を好み、後世に影響を与えた。また吾丘衍の「三十五挙」(『学古編』)は最初に著された篆刻理論書として後進に尊重された。彼らは上古の正しい印法への復古を説いて、唐代から継承される九畳篆の陋習を是正した。しかし、趙・吾は自ら印を刻むことはしなかった。彼らと交流の会った銭選はその印影が拙劣であることから自刻したものとされる。

元末の王冕は花乳石(青田石の一種)という柔らかい石を印材に用いた。これはひとつの発明であり、明代に文人の間に篆刻芸術が広まる最大の功績となった。王冕も漢印から学び自己の風格を持った印を作成した。

明・清
明代中期の文彭・何震の二人はもっとも傑出した篆刻家であり「文何」と称され尊敬を集めた。文彭は篆刻に生涯を傾け、漢印の研究を行ってその作風にとり入れ篆刻の発展に尽くした。それまで職人に頼って象牙などに刻させていたが偶然手に入れた凍石(石印材)に自ら刻した後は、二度と他の印材は用いなかったという。この逸話がほかの文人にも伝わり、石印による篆刻が一気に広まったとされる。文彭の弟子の何震は徽派(新安印派)の祖として知られ、その一派に多くの篆刻家を輩出した。蘇宣・梁?・汪関・朱簡・程邃・巴慰祖などである。徽派は黄山地方(安徽省歙県)を拠点に清代中期まで盛行し各地に拡がった。漢印の正統な作風を基礎に新鮮味を加えた作風であった。

一方、18世紀になると杭州に丁敬を開祖として浙派(西冷印派)が興る。徽派と同じく漢印を基礎としていたが、旧習から脱却し素朴な力強さを特色とした。黄易・蒋仁・奚岡・陳豫鐘・陳鴻壽・趙之?・銭松など優れた篆刻家が育ち、西冷八家と呼ばれた。

清末期にケ石如が沈滞する篆刻に革新を行ないケ派(新徽派・後徽派)の祖となった。繆篆を用いるという旧弊を打破し保守的な復古主義を刷新した。呉熙載、その後に徐三庚・趙之謙・黄士陵などの弟子が育ち、このうち趙之謙はケ派と浙派を総合して新浙派(趙派)を打ち立て優れた功績をあげた。このほか、清末には呉昌碩・斉白石など次々と優れた篆刻家が現れている。

            

日本の篆刻史 by wiki

江戸初期
室町時代に流行した私印は江戸時代初期にも見られ、藤原惺窩や林羅山などの儒者を中心に用いられた。また本阿弥光悦[1]や俵屋宗達などの芸術家も独自の印を用いている。これらの印章は誰が刻したのかは明らかではない。ただこの時代にあって、石川丈山の篆刻は他とは異なり、明代文人の趣味に通じる華美な様式が取り入れられている。明人との交友があることから篆刻を学び自ら刻した可能性もあり、日本篆刻の先駆者のひとりとできる。丈山を除けばこの時代の印章は概して実用目的で用いられ、正しい篆法・印法・刀法に則っていない。

今体派
明朝が滅亡し清朝の暴政から逃れる為に日本に亡命してきた黄檗宗の禅僧たちによって、新しい篆刻がもたらされた。隠元・木庵・即非・高泉や黙子如定、蘭谷などいずれも篆刻をよくした。とりわけ承応2年(1653年)、長崎に渡来した独立は学識深く、書を巧みとし、本国にいたときから著名であった。彼は隠元に伴って江戸を訪れ、正しい書法を啓蒙し、明代の篆刻を広く伝えた。よって独立は日本篆刻の祖[2]とされる。弟子の高玄岱を通じて榊原篁洲・池永一峰・細井広沢などの初期江戸派と呼ばれる人々の間に伝わった。渡来僧の中でもうひとり特筆すべきは延宝5年(1677年)に来日した心越[3]である。彼は徳川光圀に仕え、榊原篁洲や松浦静軒など篆刻を多くの人々に教えたという。

この新しい篆刻の風は大坂では新興蒙所や佚山らによって初期浪華派に、長崎では源伯民らによって長崎派が形成されるなど日本各地に伝播した。これらの明清の篆刻を奉ずる一派を「今体派」と称する。この今体派は特に「飛鴻堂一派」の流れを多く継承しているとされる。

古体派  *詳細は「高芙蓉」を参照
江戸を中心に隆盛した今体派の篆刻は装飾過多で卑俗に陥っていた。また舶載される書籍により、中国篆刻の情報が得やすくなり、明代の徐官『古今印史』や吾丘衍『学古編』などが刊行される。こうした中で高芙蓉によって「古体派」が起こる。装飾趣味の弊害を打破し、尚古主義を唱え、秦漢の正しい篆法に則った篆刻に立ち戻ろうとした。芙蓉門には、木村蒹葭堂・池大雅のような大家や葛子琴・曽之唯・浜村蔵六・前川虚舟・源惟良などの優れた門弟が育ち、江戸時代後期以降、大いに隆盛し全国各地に広まった。

その他
今体派と古体派が江戸時代における篆刻の二大潮流といえるが、その他にも水戸において立原杏所などの水戸派や頼一族などが中心となった文人学者の篆刻の流れも見られた。

江戸末期
一世を風靡した高芙蓉の古体派は幕末になると次第に変容し、中には古体派の風を逸脱し独自色を打ち出す者も出現する。細川林谷はもっとも華やかで清新な作風だったので広く受け入れられ著名となった。林谷は長崎遊歴後、京都・江戸に住んで活躍した。その子の林斎・頼立斎らがこの作風を受け継ぎ、明治維新後も続いた。江戸においては二世浜村蔵六が名人蔵六と呼ばれ、新味を打ち出していた。また同じく江戸で益田勤斎が初期江戸派の流れを汲みながら古法を守り、創意を加えた作風でその子益田遇所とともに浄碧居派と称する一派を成した。

明治時代・大正時代

保守派
古体派は明治維新後衰微しつつもなおその作風は受け継がれ、保守派と呼ばれた。その中で京都の中村水竹や安部井櫟堂はともに天皇御璽や大日本御璽を刻している。また江戸においては、四世浜村蔵六や細川林谷の流れを受けた羽倉可亭・山本竹雲が活躍した。中井敬所は四世浜村蔵六や益田遇所に師事し、高い学識を身につけてこの派の代表といえる。その他に豪放磊落な作風の山田寒山が挙げられる。

革新派
明治13年に来聴した楊守敬が紹介した北碑の資料に啓発され、北碑派の書が流行した。その結果、この新しい碑学派の篆刻を行う者が現れ、革新派と称した。小曽根乾堂・篠田芥津・円山大迂・初世中村蘭台・五世浜村蔵六・桑名鉄城・河井?廬などが挙げられる。大迂や?廬などは清国に渡り、徐三庚や呉昌碩から直接篆刻を学んでいる。中でも?廬は長尾雨山とともに呉昌碩に学び、西?印社にも入社している。

脚注

★ 光悦印の斬新さは後世の作に引けをとらない。宗達は印法に従ってはいないが味のある円印を好んで用いており、後の尾形光琳や酒井抱一などの琳派の作家達はこの独特の印を落款印としている。
★明治23年に中井敬所によって『独立禅師印譜』が刊行されている。この印譜は独立が帰化するときに携えてきた印をツしたもので現在東京国立博物館に所蔵される。
★ 明治14年に浅野斧山によって東皐全集が刊行された。その中に心越の自刻印の印影がある。この印は水戸祇園寺に所蔵される。
★ 出典 中田勇次郎『日本の篆刻』二玄社、1966年

用具
篆刻を行う道具は印刀(篆刻刀、或いは鉄筆)と呼ばれる。篆刻における印刀は、木彫等で用いられる印刀(先端が鋭角で片刃のもの)とは異なる刃物を意味する。篆刻用の印刀は多くの場合両刃の平刀で、直角に研ぎ出された両角を利用して彫る。刃幅は5-20mm程度であることが多い。

用途
篆刻作品は書画の落款(サイン)として利用されることが多いが、押捺した印影自体が独立した作品であり、鑑賞の対象である。印影を多数集めた作品集を印譜という。

種類・形態
白文
朱文
朱白相関
株式会社辿山

用途/内容

姓名印
雅号印
引首印(関防印)
遊印(成語印・吉語印) ⇔ 恒操印
肖形印
花押印
糸印
蔵書印(収蔵印)

★形状


変形印
関防印 引首印

関連項目

篆書
封泥
印章
官印
玉璽
印綬
落款
側款
文人
              

  

  中国の篆刻家

文 彭  1497〜1573  
何 震  ?〜1626    
汪 關  ?〜?     
丁 敬   1695〜1765  
巴 慰祖 1743〜1793  
ケ 石如 1743〜1805  
黄 易   1744〜1801  
陳 鴻壽 1767〜1822  
趙 次閑 1780〜1852  
呉 熙載 1799〜1870  
徐 三庚 1826〜1890  
趙 之謙 1829〜1884  
呉 昌碩 1844〜1927  
葉 銘   1847〜1948  
黄 牧甫 1849〜1908  
徐 新周 1853〜1925  
鍾 以敬 1866〜1917  
呉 隠   1867〜1922  
易 熹   1873〜1941  
趙 石   1874〜1933  
趙 時棡 1874〜1945  
李 尹桑 1880〜1945  
齊白石  1863〜1957  


時代区

■三国時代
楊利
宗養

■宋・元
米?
趙孟?
吾丘衍
銭選
王冕

■明・清

●文派(長洲派・三橋派)
文彭・文嘉・?之璞・陳万言・李流芳・徐象梅・帰昌世

●徽派(皖派・新安印派・黄山派)
何派・雪漁派
何震・梁?・呉正暘・呉忠・劉夢仙・陳ソウ・沈慶餘・胡正言・邵潜
泗水派
蘇宣・程遠・何通・陳彦明・姚叔儀・顧奇雲
婁東派
汪関・林皋・巴慰祖・沈世和
歙派
程邃・汪肇龍・巴慰祖・胡唐(以上を歙四家)・巴樹穀
ケ派(新徽派・後徽派)
ケ石如・包世臣・呉熙載・趙之謙・呉咨・胡?・周啓泰・徐三庚
その他
朱簡・沈鳳・羅王常・甘暘・程樸・楊当時・汪徽

●浙派(西冷印派)
★丁敬・黄易・蒋仁・奚岡(西冷四家)
★陳豫鐘・陳鴻壽・趙之?・銭松(西冷後四家・上と合わせて西冷八家)
★張燕昌・胡震・楊?・董洵

●甫田派
宋?・魏植(伯昇)・黄昇(象侯)・林熊(公兆)・林晉(晉田)

●雲間派
王曽麓・鞠昆皋

●趙派(新浙派)
趙之謙・徐堯

●?山派
黄士陵・李尹桑・ケ爾雅

●呉派
呉昌碩・王一亭

■中華民国以降

●斉派・京派
斉白石

●趙派・虞山派
趙古泥・ケ散木

趙叔孺
王石経
胡钁
陳衡恪
易熹

沙孟海
来楚生
                       

  日本の篆刻家

本阿弥光悦
俵屋宗達
尾崎散木
高芙蓉
池大雅
初世浜村蔵六 
二世浜村蔵六
頼山陽 
中村水竹 
中井敬所 
三世浜村蔵六  
四世浜村蔵六 
岡村梅軒
初世中村蘭台
五世浜村蔵六  
桑名鉄城 
北大路魯山人  
石井雙石
園田湖城
山田正平隠
二世中村蘭台 
小林斗?
梅舒適
西川寧  
川林寛次郎 


■江戸時代

●黎明期

石川丈山
本阿弥光悦
俵屋宗達

●今体派

★禅僧
独立
高玄岱
黙子如定
蘭谷
心越

★初期江戸派
榊原篁洲
松浦静軒
今井順斎
池永一峰
細井広沢
細井九皋
三井親和
山世寧
小野君山
関思恭
忍海
河村茗谿
松下烏石

★初期浪華派
新興蒙所
牧夏嶽
泉必東
尾崎散木
佚山
都賀庭鐘
里東白

★京都
片山尚宜
殿村亜岱
悟心元明
終南
林煥章
龍草廬
柳里恭

★長崎派
源伯民
滕永孚
田中良庵
永田島遷子
大城石農
趙陶斎
木村蒹葭堂
十時梅

●古体派

★京都
高芙蓉
葛子琴
曽之唯
池大雅
韓天寿
木村蒹葭堂
前川虚舟
藪星池
杜澂
源惟良
崖良弼
紀止
菅南涯
島本鳳泉
岩倉具選
三雲仙嘯
赤松眉公

★石鼓派(前川虚舟門)
呉北渚
長谷川延年
行徳玉江

★伊勢
杜俊民
小俣蠖庵
福井端隠

★美濃
二村楳山

★尾張
余延年

★江戸
植田華亭
初世浜村蔵六
島必端
稲毛屋山
二世浜村蔵六
辻孔殷
富山景順

★四国
阿部良山
壬生水石

●水戸派

立原杏所
林十江

●文人墨客

頼春水
頼春風
頼杏坪
頼山陽
頼聿庵
頼支峰
篠崎小竹
中田粲堂
貫名海屋
青木木米
田辺玄々

●江戸末期

細川林谷
細川林斎
頼立斎
三世浜村蔵六

●浄碧居派

益田勤斎
益田遇所
曽根寸斎
益田香遠

■明治・大正

●保守派

中村水竹
中井敬所
安部井櫟堂
羽倉可亭
四世浜村蔵六
山本竹雲
山田寒山

★かんたん居社
岡村梅軒
岡本椿所
郡司楳所
田口逸所
増田立所
井口卓所

●革新派

小曽根乾堂
篠田芥津
円山大迂
初世中村蘭台
桑名鉄城
五世浜村蔵六
河井?廬
河井章石
北大路魯山人

■昭和以降

石井雙石
園田湖城
山田正平
二世中村蘭台
松丸東魚
小林斗?
梅舒適
古川元清
西川寧
奥谷九林
河野隆(鷹之)
水野恵
丸山楽雲
川林寛次郎


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